子どもが危ない”豊かな社会”


はじめに

 私は、10年ほど前に起きた、栃木県黒磯市の中学生が女性教諭をナイフでめった刺しにした事件の衝撃をきっかけに、いじめなどさまざまな学校問題やこどもをとりまく環境を考えるようになりました。子どもや学校などをとりまく環境の問題やその原因・背景などを具体的に考え、メモをとり積み重ねてみると紙面が増えてきたので、少し整理してまとめてみたものが、こんな資料になった次第です。

 また、ここ近年、不登校・いじめ・校内暴力・ナイフ事件・自殺などの学校や子どもに関する問題が多くなり、重大化し、複雑化しています。子どもたちを取り巻く問題は、重大な社会問題であるにもかかわらず、こういった問題の背景や根本的な原因究明、さらにこどもたちをとりまく環境(現代社会の環境)が子供たちの成長にどう影響しているのかといった分析、それらを踏まえた具体的対策の検討など、いまだに真剣に取り組まれていません。問題や事件ごとに、個々の問題としてあつかわれるだけで、社会全体で何とかしようという認識が一切ないのです。

 そこで、こどもたちをとりまく環境がどう変わり、その環境がこどもたちにどのような影響を及ぼしているのか考え、こどもの健全育成のための対策を提示してみました。少々長くなっていますが、ぜひご一読下さい。

 子どもを取り巻くさまざまな問題を、社会全体で何とかしようという雰囲気がでてくることを期待してやみません。この資料が、子どもたちの健全育成に少しでも役に立てば幸いです。

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子どもが危ない”豊かな社会”

子どもを取り巻く”テレビ、ゲーム、パソコン、携帯電話”

 携帯電話、テレビ、パソコン、ゲームなど、便利で豊かでまさに夢のような社会となりました。ゲーム機は、現代の子供たちのほとんどが持っています。周囲の子供たちがが当たり前のように持っているから、多くの親は仕方なく与えているようです。

 親が最も心配することは、テレビやゲームなどによって勉強時間がうばわれ成績が低下してしまうことです。それゆえ、親はそれらの使用時間を制限し約束させてゲーム機などを使用させているのです。これは、ゲームだけではありません。テレビやビデオ・DVD・パソコンなど子供たちを取り巻く多様な家電・電子機器も同様に考えているようです。ゲーム機は小学生くらいになると使い始め、小学校高学年や中学生になるとパソコンや携帯電話も使い始め、毎日当然のようにテレビやDVDも相当の時間見ているのです。また、中高生になると携帯電話やパソコンも加わり、便利な通信手段として使用することはもちろん”遊び”や趣味・勉強に利用するようになるのです。特に、携帯電話やパソコンはこれらを上手に使うことによってむだな時間を省くことができるようになり、十分な勉強時間を確保し、学力を向上させるとも考えているようです。そして、最新のゲーム機は進化し、脳を活性化してくれたり運動不足を解消してくれたりするなど、まさに豊かな現代社会は、夢のような社会になったのです。テレビ、DVD、パソコン、ゲーム、携帯電話などの機器は、どこでも誰でも当たり前のように使われているのです。

 このような便利な機器類が普及したのは、このわずか20年足らずです。その問題や弊害がありながら、明らかにされず、社会問題として認識されていないのです。

 まずは、なにが問題なのかを、明確にしなければなりません。



”ひとり遊び”の現代と、昔の遊び

 少子化により、地域や近所に子供を見かけなくなってしまいました。地域や近所に子供の数が少なくなったため、子どもたち同士で遊ぶ姿を見かけなくなってしまったのです。そして注目すべきことは、テレビやゲームやDVDなどが子供たちを取り巻いていることから、子どもたちは家庭でひとりで遊んでいることです。ひとりで家にいても暇を持て余すことがなくなったのです。

 これは、昔にはなかったことです。昔の子供たちは、近所の子供たちが集団で屋外で遊んでいたのです。近所の子供たちが年齢差を越えて集い、かくれんぼや鬼ごっこ・ビー玉・ベーゴマなど、人数や年齢・性別を問わない集団を毎日つくって遊んでいたのです。



テレビやゲーム・携帯電話の問題の本質

 現代社会において、幼児から中学生くらいまでの異年齢の子どもたちが自然に集まるようなことは、なくなったのです。子供たちが自然に集まったとしても、その人数は圧倒的に少なく、その機会や時間も圧倒的に少なくなったことは間違いありません。当然、ガキ大将がいたりすることもなく、また遊びの中で年上の子が年下の子の面倒を見たりすることもほとんどなくなってしまったのです。

 つまり、現代社会において、子供たちが、人間関係を経験し学ぶ機会が圧倒的に少なくなってしまったということなのです。あたりまえのことですが、子供は生まれてからどんどん成長します。特に身体は、10代後半までには大人と同じくらいに成長します。豊食の現代は、放っておいても育つのです。 しかし、心や精神はどうでしょうか。幼児期から大人になるまで、さまざまな人とさまざまな人間関係を経験し積み重ねて、心と精神が健全に成長し大人になっていくのです。幼児期から子供同士の遊びを通じて、あいさつや礼儀はもちろん、相手を思いやったり相手の立場になって考えてみたり、自分の持ち味や性格を理解し自分の役割を担ったり、ルールを作りや約束を守ることや、責任感が養われたりなど、”人間”として極めて重要で不可欠なことが養われ、心と精神が健全に成長していくのです。一朝一夕というわけにはいかないのです。幼児期から多彩な遊びを通じて、多様な人間関係を経験し積み重ねて成長し大人になっていくのですが、これがなくなってしまったのです。

 これが問題の本質なのです。幼少期から大人になる成長期において、テレビやゲームやDVD携帯電話パソコンなどに接する時間が圧倒的に増え、これによってさまざまな人とさまざまな人間関係の経験が劇的に少なくなり、結果として未熟な子ども、未熟なおとなをつくり出していることなのです。さらに付け加えなければならないことは、この豊かな社会が、子どもの心と精神の健全成長に悪影響を及ぼしていることが問題化していないことなのです。重大な社会問題でありながら、問題視されていないことが大問題ともいえるのです。



”心の生活習慣病”の蔓延

人間は’心身’ともに健康でなければなりません。豊かな社会が糖尿病など生活習慣病を蔓延させ、大きな社会問題として国をあげて改善に向けて取り組まれていますが、”心”の健康はどうでしょうか。交通事故死は年間6千人足らずですが、自殺者は年間3万人を越えています。この自殺者の数は、豊かな社会が心の病気を蔓延させていることを裏付けています。しかし、”心の未成熟”というべき生活習慣病が認識されていないのです。

 くりかえし述べますが、携帯電話、テレビ、パソコン、ゲームなど、便利で豊かでまさに夢のような社会となったのですが、人と接する機会と時間が圧倒的に少なくなったのです。人間関係が希薄で、人間関係の経験が不足し、社会性の欠如した未熟なこどもと大人が多くなったことはまぎれもない事実なのです。自覚症状がない”心”の生活習慣病がいつの間にか蔓延してしまったのです。

 成績優秀で一流大学を出ても、会社など組織の中で人間関係を上手にこなせないと、ニートやフリーターになってしまうのです。さらに、親友や理解者・相談相手がいないと、人間不信や社会不信に陥り、秋葉原通り魔殺人などの犯罪を犯してしまうことにもなりうのです。こういったことは、他人事ではないのです。誰もが隣り合わせているのです。だから、学力低下以上に大問題なのです。

 ”心”の生活習慣病が原因であろうと考えられる現代の社会問題について、具体的に考えてみます。


ニートやフリーター

 高校や大学を卒業し、各企業や会社などに就職しても、2,3年のうちにかなりの人が会社を辞めてしまっているそうです。そういった人の多くはニートやフリーターとなり、定職につかず、また再就職しようとしない人がかなりいることは、周知の通りです。その多くの人は、人と接することが苦手であったり嫌いであったりしているようです。まさに、人間関係が苦手で、人間関係を上手にこなせないことが最大の原因のひとつだといっても過言ではないのです。

 社会人になって会社や組織・団体などに属することになると、さまざまな人と関わることになり、人間関係をじょうずにやっていかなければなりません。このためには、子供のうちからより積極的に、年齢差をこえさまざまな人達と関わり、さまざまな人間関係を経験させることが必要です。自分の個性や持ち味を認識し、自分の役割を担ったり演じたり、責任感を養ったり、礼儀を学び、相手の立場を思いやることなどまさに多様な経験によって健全な大人に成長するのです。学校の成績が優秀でも、人間関係をうまくやれない人は会社など人間集団・組織など社会の中で健全に生きていけないのです。社会人になって人間関係の重要性に気づき、これを改善向上させるべく人間関係を経験し学んで人間性を豊かにすることは容易なことではありません。20代のニートやフリーターは、あっというまに30歳40歳となり、40歳を過ぎるとさらに就職条件が厳しくなってしまうのです。こういったことを考えると、学力や成績よりも優先すべきは、人間関係の経験で、社会性を身につけ、人間関係を上手にこなせるような”人間性豊かな人づくり”が必要なのです。


不登校

 不登校(病気などの理由がなく、年間30日以上欠席。)の児童生徒の割合は、1990年代は小学生で0.3%、中学生で1%程度だったそうですが、現在は、小学生で1%弱、中学生では約3%にもなるそうです。つまり、この20年足らずで約3倍も増えたことになるのです。

 そして、この3%足らずの数に注目しなければなりません。『氷山の一角』と、その『予備軍や底辺』を想像してみてください。学校を休みがちな生徒や、学校に行きたくないけど我慢してやっと行っている生徒などは、もちろん計上されていないのです。いやな思いをして悩みを抱えながら通って入る子供たちは相当数いるのです。ほとんどの子供たちが何らかの悩みを抱えれいるといっても過言ではないかもしれません。相当数の生徒・児童がつらい思いをして通っていることになるのです。他人事ではないのです。

 不登校の理由は、さまざまですが、友人関係や人間関係がいやだという理由が圧倒的に多いようです。また、いじめも多いようです。このいじめも、言い方をかえれば、人間関係を上手にこなせないことなのです。いじめる側は、人間的に未熟で相手の立場になって考えられないとか、相手を思いやることができないがゆえ、いじめてしまっていることがあるからです。もちろん、それとは逆に、人間的に未熟であるがゆえに相手の立場になって考えられないことから、いじめられることも当然あるのです。

 何とかかろうじて学校へ通い続けることができる人は、ある意味で人間関係の経験を積み重ね成長し、人間関係をじょうずにこなしていくことができるようになるのです。それが、健全な人間関係かどうかは別として、周りに流されたり合わせたりして何とかこなすことができることになるのです。繰り返しますが、それが健全であるかどうかは別ですが。

 いずれにしても、この不登校の人数は増え続けているようです。その対策としてスクールカウンセラーなどを、各学校に配置しているようですが、これは、抜本的な対策ではありません。不登校の人数を減らす効果はあるが、根本的な問題解決の対策ではないのです。

 そして、この不登校者の人数の増加の時期とまったく重なるのは、まぎれもなくゲームやテレビ・パソコン・携帯電話などの普及であることを認識しなければなりません。



秋葉原通り魔殺人事件

 インターネットやメールなどやネット社会の問題を、象徴しているのが秋葉原通り魔事件です。この事件の最大の特徴は、ネット上で犯行への経緯や実行などを表明していることです。本来ならば、会社や社会におけるさまざまな悩みや不満などは、友人や仲間・家族などに悩みなどを誰かに相談し、誰かが支えとなるなど、『人』を介して乗り越えていくのですが、そういった人間関係が、まったく存在してないことなのです。もちろん、人とのかかわりがまったくゼロではなかったでしょうが、人間関係が、極めて希薄になったことを象徴している事件のひとつといえます。携帯電話やパソコン・ネットを通じて、悩みや不満を訴え救いを求めたものの、本人の欲求は満たされるどころか人間不信に陥り、犯行に至ったといえるでしょう。

 メールやネットでは、真意が伝わらなっかたり誤解が生じたりしやすいことはいうまでもありません。人の目を見て話すことが極めて重要なことなのです。人と接し人間関係を築き良好な対人関係を維持することは容易なことではありません。人と接することが苦手・いや・めんどうだといってこれを避けると、理解者がいなくなり、欲求不満や愛情不足になり、結局は犯罪に至ってしまうことにもなるのです。



川口市女子中学生父刺殺事件

 この事件は、埼玉県川口市の女子中学生が父親を刺殺した事件です。その女子中学生は、『人の顔色を見て生きるのに耐えられなかった。』『人に合わせて、人から嫌われないように生きるのに疲れた。』と、言っているのです。不登校者の多くが、人間関係・友人関係がいやだということと、この事件の背景はまったく共通しているといえるのです。未熟な人間関係がなんらかの原因となっていたといえるです。

 ここで、付け加えなければならないことがあります。事件や犯罪では、当事者になんらかの原因があることは間違いありませんが、不登校やいじめなどでは、その周りの人たちに原因がある場合も当然あるのです。不登校や何らかの事件があると、その当事者のみが注目されてしまいますが、当事者の問題よりも、その周りの集団の人間性や社会性が未熟であることが原因であることも大いにありうるのです。この事件の背景や原因はわかりませんが、周囲の人間、つまり社会全体の未熟さが根本原因になっていたこともありうるのです。

 本人は健全に成長しているのに、周囲の人間の未熟さが原因で、つらい思いをし不登校になったり、犯罪を犯してしまった人もいると思います。そういった人やその家族のことを思うと、いたたまれなくなるのは私だけではないでしょう。本当にかわいそうでなりません。

 


KY〈空気を読めない〉

  KYという言葉があります。『空気を読めない。』この得体の知れない言葉の本質は、この”空気”を、一部の人間が一部の人間の都合で故意につくりだしていることなのです。本来は”空気”といえないことでさえ、”空気”と宣言して勝手に”空気”をつくりだし、『空気を読めない。』といっているだけなのです。つまり最新の”空気”を知らなければ、『KY-空気を読めない。』といわれ、さげすまされてしまうのです。

 この構図は、いじめの構図と同じで、まさに、いじめの本質なのです。『あいつは、空気が読めない。』といわれれば、いじめられる側になっていしまうので、子どもたちは、その最新の”空気”を”知る”ことに躍起になっているだけなのです。『KY』は、人間やその集団が極めて未熟であることを物語っているひとつといえるのです。


学校における、いじめや自殺

 すでに、不登校や犯罪などの背景や原因について述べました。子どものいじめや自殺も、学校における大きな問題として近年なくなることはありません。なくなるどころか、いじめはどんどん増加しているのです。

 文部科学省や各自治体は、いじめの調査を行い、いじめの”数”を減らすことに躍起になっています。栃木県でも知事の『いじめの数をを減らす。』の一言で、翌年の調査ではいじめの件数が減ったことがありますが、まさに茶番劇としか言いようがありません。”いじめ”を定義することでさえ、きわめて難しいのです。定義や解釈を少々変えれば”数”は簡単に減らせるのです。『教室の悪魔』という著書などにあるように、いじめはいじめる側もいじめられる側もおとなには絶対わからないように行われているというのです。学校の先生や親にも直接相談することなどほとんどありえないというのです。また、メールやブログなどネットによるいじめも相当あるというのです。いじめの”件数”を正確に把握することなど到底不可能で、調査結果として”いじめの数”に一喜一憂することじたい、いじめ問題の本質をまったく理解していないのです。

 いじめは、それがエスカレートすれば自殺に追い込まれることもあるのです。自殺など事件にならなければ注目されませんが、事件にならない範疇のいじめは極めて多いことは容易に想像できるのです。陰湿ないじめをうけたり、集団でいじめを受けるなど、つらい思いをしている子供たちが相当数いることを思うと、胸が痛くなるのは私だけではないでしょう。

 そして、携帯電話やパソコンなどから、誰にも気づかれないようにいじめるなども、おおいにありうるのです。携帯電話やインターネット・メールなど、子供たちが扱う通信機器やネットの使用に関して、新たな規制やルールづくりに早急に着手すべき時期であるともいえるのです。『携帯電話を与えない』、『メールやネット機能の廃止』などについて、早急に議論すべきではないでしょうか。


犯罪社会の背景

 栃木県黒磯市の中学生が女性教諭をナイフでめったざし、長崎県の小学生が同級生をカッターで刺し殺し、秋葉原で7人を殺害など、殺人事件など凶悪犯罪はあとをたちません。私は、各犯罪を調べたり分析しているわけではありませんが、いずれの事件も、その人の人間関係が豊かであれば起こりうるはずがないのではなかったと思えてなりません。

 人は誰しも、ひとりでは生きて行けません。人と接することで、時には愚痴を言ったり聞いてやったり、時にはけんかをし、時には忠告したり忠告されたり、時には助け合うなど、苦しんだり泣いたり喜んだりして、生きていくのです。しかし、凶悪犯罪を起こしてしまうのは、そういった人間関係の経験が不足したまま人と接することが少なくなり、少しずつさまざまな悩みやいやなことなどをため込み、誰かにその悩みなどを打ち明けたり聞いてもらったりすることもないまま、キレてしまったということではないかと思うのです。幼いうちから多くの人と接し、悩みがあれば相談したりされたり、相手の立場を思いやったり、相手の立場になって物事を考えてみることができれば、人を傷つけるなどの犯罪に至るはずがないのです。

 凶悪事件の犯罪者は、低年齢化しています。また、ごく普通に見える子であったり、目立たない子だったとの話もよく聞きます。これは、まさに、現代社会特有のことで、人間関係の経験不足による社会性や人間性の未熟さが根本原因になっていることを裏付けているのです。もちろん、個人の未熟さだけが犯罪を多くしているわけではありません。学力・成績の評価、学歴や勝ち組・負け組など現代社会の尺度も子供たちにストレスを与え、その延長線上で犯罪が発生してしまうのです。

 誰しも犯罪を犯すおそれがあると述べましたが、犯罪に至る確率はもちろん低いでしょう。しかし、人を殴りそうになった人は、言い方を変えれば傷害罪の一歩手前だったと言えるのです。また、誰もが、友人関係がいやで不登校になったり、ニートやフリーターになってしまうおそれもあるのです。もう少し言えば、不登校者にならない、ニートやフリーターにならないまでも、そういったひとと紙一重の人が相当数いるのです。学校を休みたいががまんして行っている人、仕事をやめたい人など、その予備軍や底辺の人はたくさんいることは容易に想像できるのです。

 さらに憂慮しなければならないことがあります。人間関係がいやで人と接することを怠っても、人はそれ相応に成長し、社会性や人間性が未熟なまま大人になるのです。そしていずれ結婚し、親になり家庭を持つようになるのです。その結果どうなるでしょうか。学校をみてください。学校では、信じられない親がとても多くなっているそうです。”モンスターペアレント”がこの事実を物語っているのです。さらに、恐ろしいことに、その親が子ども達を育てるようになるのです。こういった状況を放置しておけば、どうなることになるのでしょうか。

 自己主張しかしない子ども・相手の気持ちを察せない子ども、人と接することが苦手・いや、社会性・人間性の乏しい大人、社会不信・人間不信、暴力・犯罪。こういったことは、他人事ではありません。誰もが隣り合わせている社会になってしまったのではないでしょうか。



豊かな社会の問題を、まず認識しよう

昔の子どもの集団

 昔の子どもの集団は、どのようなものでしたでしょうか。まず、集団の範囲は、近所もしくはその地域です。地域とは、具体的には、組内や自治会や行政区や子ども会や育成会といった範囲です。またその年齢層は、幼児から中学生くらいまでが一緒になって遊んだものです。

 昔の遊びの集団は、幅広い年齢層の子供たちがそのつどさそいあって集ったので、その日によってメンバーや人数は異なるものでした。遊びの種類もままざまで、その日のメンバーや季節・天候・場所などによりさまざまな遊びの中から選んで遊んだものです。当然遊びにもルールが必要で、遊びの種類とその日のメンバーを考慮して、そのつど決めたものです。

 そして、条文などなくても、敵味方を分け、誰を”油虫”にするかなど、適切に決めるのです。年上の子は、誰かに言われることもなく集団をまとめ、小さい子の面倒を見たりするのです。面倒を見てもらった年下の子は、年上の人をあこがれ尊敬し目標とするのです。また、言い合いやけんかは当然あり、そういった経験を通じて、ルールを守ることはもちろん、あいさつの必要性や我慢すること、自分の役割・持ち味・性格・責任を果たすこと、相手の立場を考えたり相手を思いやることができるようになったりしたのです。子どもたちは、このように”遊び”を通じて、この集団と体験から多くのことを自然に学び、そして自然に受け継いでいったのです。”遊びの集団”は、社会性や人間性を身につけるなど、健全な”大人”になるために不可欠な”学び場”だったのです。

 また、特筆すべきことがあるのです。子どもは、年上であろうがなかろうが、言葉や語彙や表現が未熟です。しかし、大人のようにじょうず表現ができなくても、子供同士の集団の中でじょうずに人間関係をこなすようになるのです。これは、人の表情を読取ることを、自然に学んでいるからなのです。さまざまな人と接することで、いつの間にか人の表情を読めるようになるのです。人の表情を見て相手の気持ちを察するのです。こういった経験から、相手の立場を思いやれるようになるのです。つまり、”自己主張のみ”とならないのです。

 まさに、”遊び”といえども、極めて重要な役割を担っていたのです。社会の中で健全に生きていくために不可欠な多くのことを、子どものうちから経験し積み重ね成長していったのです。机上の知識で、一朝一夕には到底できません。幼児期からおとなになるまで、本来の”遊び”に多くの時間を費やすことで、心や精神が育まれ、社会性を身につけ、人間性豊かな大人に成長していったのです。


”心の生活習慣病”対策

 現代の子どもの集団は、塾や部活やクラブなどで、必ず大人が介在しています。そしてそれらは、能力や成績で分けられ、多様で自然な集団ではないのです。そして遊びといえば、テレビ、DVD、パソコン、ゲーム、携帯電話など一人遊びがほとんどで、子供たちに必要な本来の”集団の遊び”がなくなってしまったのです。昔の”遊び”は、現代のゲームなどの遊びと本質的に異なっていたのです。本来の”遊び”は、社会性を身につけ人間性豊かな健全な大人になるための大切な”学び場”であったのです。

 大人からみれば、勉強でもなく生産活動でもない”遊び”の内容には特に関心がないので、子どもの健全成長に必要な”学び場”がなくなっても、その問題の重大性に気づかなかったのです。いや、いまだに気づいていないのかもしれません。

 子供たちの”遊び”の形態のすべてを昔に戻すことはできません。また、こういった機器類だけが、本来の”遊び”を奪った原因ではありません。少子化や犯罪の増加も重大な要因となっています。つまり、”遊び”を中心とした子供たちを取り巻く環境を変えることは容易なことではありません。多くのアイデイア・工夫や試行錯誤など膨大な努力と時間を費やすことになるでしょう。

 まずやらなければならないことは、便利で高度な機器類の普及に伴う人間関係の経験不足が子どもの健全育成に悪影響を及ぼしていることを、日本社会のすべての人が認識することです。少なくとも、子どもを持つ親は、ただちに現代のゲームや携帯電話など、”遊び”の変遷による弊害、すなわち”心の生活習慣病”が子どもたちに蔓延していることを認識しなければなりません。

 現代の日本社会では、普通の子どもや優しい子どもが、いじめや不登校・ニートやフリーター・自殺や犯罪と隣り合わせているのです。

 現代社会の子ども達を育む環境の問題について、まとめてみました。この問題の改善は困難を極めます。しかし、これをだまって放っておくわけにはいきません。今後、親、家庭、地域、学校、子ども会、育成会、保育園、幼稚園、部活、スポーツクラブ、祭り・イベントなどさまざまな観点から対策を考え、提案してみたく考えています。

薄井 徹

"Soboku" na column

薄井徹 1962年、栃木県旧喜連川町生まれ。 2002年に40歳で脱サラ、起業。 一般社団法人 素木工房里山想研代表理事。喜連川丘陵の里 杉インテリア木工館を運営。