いじめの背景と、学校のこれから

はじめに

 ここ近年、ナイフ事件・学級崩壊・不登校・いじめ・自殺など、こどもたちを取り巻くさまざまな問題が重大化し、大きな社会問題となっていることは周知の通りです。教育再生会議とか教育基本法改正の中でいじめ問題等が取り上げられていましたが、いじめや不登校などの景や根本的な原因究明、さらにこどもたちをとりまく環境(現代社会の環境)が子供たちの成長にどう影響しているのかといった分析、それらを踏まえた具体的対策の検討などが、いまだに真剣に取り組まれていません。

 そこで、こどもたちをとりまく環境がどう変わり、その環境がこどもたちにどのような影響を及ぼしているのか検証し、こどもの健全育成のための具体策を提示してみました。

 この資料が、こどもたちと将来に、少しでも役立てば幸いです。



資料の内容

①:いじめの背景と、"学校や大人"の役割 【本資料のまとめ】

②:こどもを取り巻く今昔と、"いじめ"の背景

③:『学校の集団規模』と、いじめの構図

【おわりに】



日本の社会は、わずか数十年という短期間に豊かになり社会構造や生活習慣も大きく変わり、こどもたちを育む家庭・地域や遊びそして学校も大きく変わりました。こどもたちをとりまく環境がどう変わり、その環境がこどもたちにどのような影響を及ぼしているのか検証してみると、そのいずれの環境もこどもの健全成長に悪影響を及ぼしていることがわかりました。まさに、ナイフ事件・学級崩壊・不登校・いじめ・自殺などの学校問題の重大化がそれを裏付けているのです。(詳しくは②をご覧下さい。)

 こどもをとりまく『家庭、地域、遊び』という環境を改善してやることは当然ですが、容易なことではありません。さらにやるべきことは、『学校』の環境の改善向上に向けた取り組みです。しかも改善の余地が大いにあると考えられます。改善に向けた取り組み・検討をおこなうべき事項を下記に示します。

・学級定員の少数化

・学校規模の小規模化

・1学年1学級化

・幼稚園小学校中学校の一体化

・小中一貫校

・小規模化のための分校方式

・その他

こういった学校の在り方の改善(学校の再編成)に、早急かつ真剣に取り組む必要があるのです。



 以上、子供たちを育むすべての環境が悪くなってしまったことがわかります。その結果、学校における不登校やいじめなどの問題が増えているのです。現代社会は物質的には豊かになり、家や学校など施設設備は良くなりました。しかし、子供たちの心をはぐくむ環境は極めて悪くなってしまったのです。

 現代社会の中で、重要なこと優先されていることは”経済”です。しかし、もっと重要なことは、こういった子どもたちを取り巻く環境を改善してやることです。

 社会全体で何とかしようという雰囲気がでてくることを期待してやみません。




③:『学校の集団規模』と、いじめの構図

自然で健全な人間関係が営める規模

 人間は古来から群れをつくり集団の中で人間関係を上手にこなし生きてきました。100人規模の集団と1000人規模の集団を想像してみて下さい。100人程度でしたら名前はもちろん性格のことなどもわかりますが、1000人となると顔も名前も知らない人がでてきます。人間の集団が300人を越えるような規模になると、すべての人同士がとの関わりが難しくなり、’他人事’や’無関心’が多くなり、あさつをしなくなるなど、健全な人間関係を営める社会集団でなくなるのです。自然で健全な人間関係が形成できる集団規模は200人から多くて300人程度以下であるといわれるのです。

 これは学校という集団においても同じです。同級生はもちろん、全校生やすべての先生をお互いが把握しさらには地域の大人などからも声をかけられるなど、年齢差を越えて多様な交流ができる環境が、学校という集団にとって必要なのです。常に誰かに見守られているような安心感があり、自分が自分自身の存在を感じ理解できるような状況は、心の健康・健全な精神の育成に良好な環境であるのです。これができるのは全校生で300人程度以下の中小規模校なのです。大規模校では、クラスの数や同級生の数が多く同級生との関わりが主となります。結局は、話さない・知らない・あいさつをしないなど、無関心や他人事が多くなり健全でなくなるのです。



学年差や年齢差をこえた関わりの必要性

 同級生同士の中では、あこがれられたり、尊敬されたり、感謝されたりする機会がほとんどありません。これは能力や経験に大差がないからです。これに対し、年齢差を越えた関わりや交流が多くなると、その子どもたちはさまざまな体験をすることになるのです。

 年下の子は、おにいさんおねえさんに面倒をみてもらったり教えてもらったりすることで年上の人にあこがれます。年上の人の行動や活動を見ることだけでもあこがれたりするのです。親に言われてもやらないこともお兄さんやお姉さんだと素直に聞くのです。そして早くお兄さんやおねえさんのようになりたいと思うことは、目標を持つことになり、向上心を育み、お手伝いをするようになったり、年下の子の面倒をみたりするようになるのです。そして、こういったことを大人にほめてもらえることで、子どもは健全に成長していくのです。

 そして、年上の子は年下の子から、あこがれられたり、尊敬されたり、感謝されたりする機会が多くなるのです。こういったことは極めて大切なのです。同級生同士の中では、こういったことはありません。成績がいい子や運動能力が優れた一部の子は、それ自体で自分の存在感を認識することができるのですが、そうでない子は自分の存在感を感じることができないのです。しかし、異年齢集団の中では、大きい子には大したことでなくても小さい子には’すごい’と感じ、尊敬したりされたり、感謝したりされたりするもので、これはとても貴重なことで、自分の存在感を感じることや生きがいを見いだすことができるなど、心や精神の成長に極めて重要な役割を果たすのです。

 また、異年齢集団における、あこがれたりあこがれられたりする行為は、具体的に言葉に表さなくても、尊敬のまなざしなど表情で伝わるものであることも付け加えます。、まさに自然な関わりの中で無意識に感じとることができるもので、向上心を育み存在感を感じたり、子どもの健全成長に極めて重要なことなのです。

 現代社会において、幼児や小学生・中学生などが年齢差を超えて遊ぶなど交流する機会がまったくなくなってしまいました。本来、子供にとっての遊びは、さまざまな経験を学ぶところで、特に人間関係を形成する極めて重要な役割を果たしてきたが、ここ2、30年の間にテレビとゲームおよび少子化により、遊びの形態がひとり遊びとなってしまい、人間関係を経験し学ぶ場所としての’遊び’ではなくなってしまったのです。従来の’遊び’は極めて意義のある貴重な役割を果たしてきたのですが、その’遊び’がなくなり、それを補うものもなく、まさに大きな問題であることを声を大にして言わなければなりません。

 以上から、年齢差を超えさまざまな人と接し、多様な人間関係を経験し学ぶ機会を提供する必要があるのです。従来の’遊び’を復活させることは容易なことではありません。保育園から小中学校を一体化し1学年あたりの人数を少なくするなど、真に自然な環境を提供できるような公共施設の再編成についても、検討・議論が必要となるのです。

 しかし、垣根(厚生労働省と文部科学省、児童課と学校教育課など)を越えた検討・議論と計画・実施は容易なことではありません。社会全体で何とかしようという雰囲気がでてくることを期待してやみません。


健全な社会人・大人になるために

 社会人になって会社や組織・団体などに属することになると、さまざまな人と関わることになり、人間関係をじょうずにやっていかなければなりません。このためには、子供のうちからより積極的に、年齢差をこえさまざまな人達と関わりさまざまな人間関係を経験させることが必要です。自分の個性や持ち味を認識し、自分の役割を担ったり演じたり、責任感を養ったり、礼儀を学び、相手の立場を思いやることなどまさに多様な経験によって健全な大人に成長させるのです。近年、ニートやひきこもりが多いのは会社という組織の中での人間関係をうまくやっていけないことが原因のひとつです。勉強ができても人間関係をうまくやれない人は会社や社会の中で健全に生きていけません。ニートやひきこもりをなくし、健全な社会人に育てるためにも、年齢差を越えた関わり、多様な教師との関わり、地域の人との関わりなどを提供することも学校や教育の役目です。小中学校の小規模化や1学年1学級化さらには小中一貫校などの導入についても取り組む必要があるのです。こういったことにより、多様な人間関係を経験でき健全な大人に育てることができるのです。


教師の負担差による影響

 児童数が多い大規模校になるほど、校長・教頭先生や養護教諭は、全児童の名前や顔を把握しきれなくなるだけでなく、ひとり一人の個性や問題を把握しきれなくなります。担任の先生は、受け持つクラスと同学年のことで精一杯となり全児童に対する気配りができなくなる。親や家庭に問題があったり、友達間の問題があったり、いじめがあったりなど教科学習以外でもさまざまな問題があり、学校でそういったことに気付き対応できるのはまさに教師なのですが、大規模校になるほどそういった対応処置ができなくなるのです。このような心の問題は早期の発見と対処が有効不可欠で、これができるのは、教師の目が届きやすい少人数学級で中小規模校なのです。担任はもちろん校長や教頭・養護教諭など誰かが、’子供の表情や行動の変化・異常’を発見できる学校環境により、いじめなどの問題を減らすことができるのです。


心の健康に及ぼす教師の役割

 中小規模校では、校長・教頭先生や養護教諭など担任以外の先生からも声をかけてもらったり心配してもらったりほめてもらったり相談にのってもらったりなどの機会が多くなります。このように子供は、声をかけられることの積み重ねにより’心’が健全に育まれるのです。家庭でも同じで親はもちろん、祖父母・叔父伯母・近所の人など多くの’声’が必要なのですが、最近、家庭においてもそういった機会が少ない。したがって、大規模校になると’愛情不足’を助長してしまうことになるのです。


いじめや暴力の構図

 上記から、’いじめや暴力の構図’も見えてきます。ひとことでいえば’愛情不足’がいじめなどを発生させるのです。愛情は溺愛することではありません。多くの人の『声の積み重ね』と『まなざし』が’愛情’になるのです。成績が優秀な子や、運動能力に優れる子や、クラスの人気者など自分の個性をうまく出せる子は、周りの人からいつもほめてもらったり心配してもらったり尊敬されたりあこがれられたりなど声をかけてもらえるのです。そうでない子はどうでしょうか。ほめられなかったり、心配してもらえなかったり、尊敬されることもなかったり、感謝したりされたりすることもなかったり、表情が暗いことから声もかけてもらえなかったり、こういった状況を想像してみて下さい。また、自己顕示欲が強いが、これに成績か運か人気など自分が望むことが伴わなわず、他にこれをこなす人がいると、注目されることがなくなり、結局欲求不満や劣等感を持つなど一種の愛情不足状態になり、それを解消すべくいじめたり暴力を振るったり自己中心的な行動をとり和を乱したりするのです。

 このことは、経験を積んできた大人たちは容易に理解できることだと思います。いじめを発見することも大切ですが、学校においてもっと重要なことは、いじめを発生させない環境をつくることなのですが、こういった取り組みがまったくなされてきませんでした。学級定員を少数化し、年齢差を越えた自然で多様な人間関係を経験できる学級・学校編成が、これを可能にするのです。ひとりひとりの性格はもちろん能力など、まさに多様な個性をもった子どもたちは、ひとりひとりが声をかけられ注目され関心を持たれなければなりません。声の積み重ねが愛情になるのです。

 "学校"という集団は、埋もれ、忘れられてしまうような"大集団"ではいけないのです。現代、そして日本における"学校"という集団規模(文部科学省が進めた適正規模)では、結果として、"いじめ"を減らすことはできないどころか、増え続けている要因の一因となっているのです。


運動会など行事について

 運動会など行事の役割は、①行事という集団行動を通じて協調性を学ぶ、②行事を遂行すべく運営者しての役割を認識し、役割分担や協力することやリーダーシップなどを学ぶ、③種目や演技などへの出場・出演と、運営への参加を通じて自分の得意なことや苦手なことを理解し、自分の持ち味や個性というものを理解する、④さまざまな役割分担を通じて、組織や集団への貢献や責任感を学ぶ、⑤さまざまな参加により、その活躍や貢献をほめてもらったりはげましてもらったりして自分の存在感を感じる、⑤ほかの人の活躍や貢献の様子を見て、応援したり、いっしょに喜んだり、あこがれたり、尊敬したり、多様な体験をすること、⑥ほかの人の失敗やミスをみて、なぐさめたり悲しんだり残念がったりはげましたりすることができるようになるなど、人間として必要なさまざまな体験や経験する貴重な場であるのです。

 このように多様で貴重な経験ができるのはどのような規模でしょうか。たとえば、小学校で、1学年1学級30人では全校生で180人です。1学年3学級40人では全校生で720人になります。規模が大きくなればなるほど、出場・出演の機会が少なくなります。それにともなって、前述の多様で貴重な体験をする機会が極めて少なくなってしまうのです。また、行事運営に関わる人数が限られることから運営に携わる機会が少なくなり、そういった裏方的役割にかかわってそういった活躍をみてもらってほめてもらうなどの機会がなくなってしまっていることも忘れてはなりません。人数が多い大規模校では、種目へ参加したがらない、運営への協力もしない、種目や演技を見ない、応援しないなど、無関心や他人事が極めて多くなってしまうのです。まさに、多すぎると自然で健全な人間関係ができなくなるのです。

 遊びがひとり遊びに大きく変わり、地域がなくなった今日、このような運動会などの行事は子供たちに多様な体験を提供できる貴重なものであることを認識しなければなりません。

 また、保護者の立場から考えてみましょう。大規模校の運動会や、人数の多い幼稚園や保育園の運動会やお遊戯会を思い出してください。子供の人数が多いといろんな苦労や問題があります。駐車場、場所取り、ビデオ撮り、シャッターチャンスを逃さないこと、自分の子供をさがすことなど、たくさん苦労があります。こういった状況では大人は自分の子供のことだけで精一杯になり、その子供は自分の親に見てもらうことだけに気にとられてしまいます。つまり、自分のことだけしか考えられなくなり、自分の種目が終わるとあとのことには無関心になり他の子のことを見て応援したり喜んだり悲しんだりなどの貴重な経験をできない、いや体験をさせなくしているのです。これでは相手を思いやる心や相手の立場になって考えることができるようになりません。これは極めて重要なことなのです。

 人数が多い大規模な集団では、こういった弊害や問題があることも認識しなければならないのです。さらにいえば、大規模校におけるこういった行事では、出場出演する機会は少なくなると、行事自体に期待感や関心がなくなり、その存在意義がなくなり、学力低下という観点からも廃止した方がよいというになってしまうのです。遊びの形態がひとり遊びとなってしまった今日、人数が多すぎて’個’が埋もれてしまうような学校規模は、こういった意味においてもいち早く回避しなければなりません。そして、小規模校ではこういった問題はほとんどなくなります。


地域との交流など課外活動

 大規模校になるほど、人数やクラスの数が多くなり、地域の人との交流など課外活動がしにくい。例えば、地元の農家が収穫体験を提供しようとしても、人数の制限で学校側はせっかくの提供協力をことわざるをえないことになるのです。

 これが1学年1クラス程度の小規模校の場合でしたらどうでしょうか。農家や企業・商店など何らかの体験を提供する側も、それを受け入れる学校側も容易にできることは、いうまでもありません。



修学旅行や遠足

 大規模校では1学年3,4クラスを超え全校で20クラスにもなります。もちろん学年ごとの行

事となるのでしょうが、それでも100人200人規模の行動になるのです。交通手段の確保、日程

の調整、宿や施設の手配、受け入れ先や見学先などの制約など、計画し引率する教師の大変さは計り知れません。もっとも、こういった状況になるとコースや日程は毎年同じになってくるのです。つまり、結局は、多様な計画が難しくなるなど、子供たちにとっても監視制限される時間が長くなり、多様で貴重な体験の場でなくなてしまうのです。つまり、人数が多くなるほど目が届きづらいため、そのぶん事故や事件に巻き込まれる恐れがたかくなり、結局は子供にとっても引率する教師にとってもプラスメリットはないのです。それどころか、遠足や修学旅行の意味・意義がなくなってしまうのです。

 これが1学年1クラス程度の小規模校の場合でしたらどうでしょうか。集団行動する人数は多くて30人から40人です。団体の人数がある程度以下になると、身軽になり、多様な遠足・旅行の計画が可能で、それを計画し引率する教師の負担も大規模校に較べかなり楽になります。つまり、貴重な体験や思い出を提供できる遠足・旅行が可能となるのです。

 このように課外活動や修学旅行・各行事などは、適度に小さい規模が活動しやすいことはいうまでもでもなく、特に現代社会構造の中においてはそれらの目的や意義のためにも活動しやすい集団規模にする必要があるのです。



現代社会の"集団の問題"

 さらに付け加えることがあります。、人間は太古以来動物として群れてきたこと、そして学校という集団ができたのは、この百数十年足らずのことである、ことです。その学校は、基礎知識から高度な知識までを効率よく学ばせるため、能力別すなわち年齢別の集団をつくり、合理主義の中で人を育成しているということなのです。

 本来、人は、年齢別や能力別でない多様な人間集団の中で、生きてきたことを忘れてしまいました。他の動物と同じように"群れ"をつくっていきてきたのです。何を言いたいかというと、人は生まれてから死ぬまで、年上年下の人はもちろん老若男女・障害者健常者を問わず多様な人の集団の中で生きてきたのです。おにいさんおねえさんに面倒を見てもらいそしてあこがれ、上下関係をつくり、年上の人を敬ったり、弱い人を助け、あいさつや礼儀を学ぶなど、さまざまな人間関係を経験し、人間関係をじょうずにこなし、生きてきたのです。

 現代社会では、学年別能力別の学校や塾にクラブに部活など、自然でない合理主義下の人間集団の中で学び生活しているのです。つまり、真に多様な人間集団の中で人間関係などを十分に経験しないまま成長し、大人になってしまっていることが大きな問題なのです。そして、このことがまったく認識されていないのです。このことも、今後、考えなければなりません。



【おわりに】

 この3,40年間に社会の構造が大きく変わりました。遊びの形態がひとり遊びとなり、’地域’で子供同士が年齢差を越えて遊ばなくなってしまったのです。これが重大な社会問題としてとらえられていないのです。本来の’遊び’がなくなってしまったことは、人間形成の上で最も大切な人間関係を学ぶ機会を失ってしまった、ということなのです。人間関係をじょうずにこなせない人間性の未熟な大人になってしまっているともいえるのです。

 また、学校教育法施行規則による小学校の標準規模(12~18学級)は、昭和20年代に制定され、50年以上余りを経た今もそれを運用しています。これは極めて子供の数が多い時代に、主に補助金配布の観点から制定された基準で、少子化の現在、それを適用する根拠はありません。検証や議論も無く、適用し続けていることが大きな過ちで、大きな驚きです。

 こういった観点からも、学校などのあり方を直ちに見直す必要があるのです。つまり、自然で健全な人間関係を経験できる場に改善する必要があるのです。50年以上も前に制定された学校の標準規模を早急に見直すとともに、年齢差を越えた子供たちが多様で自然な人間関係を経験できるようなさまざまな対策の模索が必要です。子どもたちの成長は待ったなしです。できることからはじめなければなりません。少人数学級化はもちろん、小規模小中一貫校の導入検討などに至急取り組む必要もあるのです。

 そして付け加えるべきことがあります。こういったことは"教育関係者だけ"ではだめなのです。日本社会の大人全員が、『いじめ、不登校、ニート、ひきこもり、自殺』といったひとを取り巻く問題を認識することからはじめなければなりません。問題・課題を認識した上で、こどもたちを育む集団規模など学校などについて、さまざまなアイデイア・工夫を絞り出すことなど、議論・検討することからはじめる必要があるのです。"ひと・こどもたちを取り巻く環境"に、正解はありません。社会問題や社会生活環境の変化などを踏まえ、最良の対策を常に考え続ける必要があるのです。教育関係者や児童福祉などこどもにかかわる一部の人が、対症療法的にかかわるだけではだめなのです。地域の大人たちが総がかりで知恵をふりしぼるような体制が必要で、そして、日本中の"世論と議論"を呼び起こすことが有効で必要なことなのです。社会全体で何とかしようという雰囲気や世論が盛り上がることを期待してやみません。

平成19年1月

薄井 徹

"Soboku" na column

薄井徹 1962年、栃木県旧喜連川町生まれ。 2002年に40歳で脱サラ、起業。 一般社団法人 素木工房里山想研代表理事。喜連川丘陵の里 杉インテリア木工館を運営。